植草一秀氏を応援します!写真の無断転載厳禁


by yuutama1
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裁判所の腐敗は被告人になってみなければわからない。

植草氏の場合と同じように裁判所が検察・警察側の矛盾を全く問題視しなかった判決に対する
HPが有ったので転記。日本の裁判所とはこんなものなのですね。
植草氏の場合は、単に裁判所の問題だけではなく、そういう判決を出させた背景があると
思うので、若干違うとは思いますが。
こういった警察の言うことは間違いないと考える(一部)裁判官の実態を見ず、
植草氏の控訴断念を非難するのは間違っていると思いますね。
もう少し深い考察が必要だと思います。


http://www.incidents.gr.jp/より

それにしても、実際に法廷でボロを出しまくった大滝警部の証言が、「それでも虚偽とまでは言えない」と言われていることとの落差である。
 このような裁判の実態の中で、権力機関たる警察を相手に個人が勝訴するのは、前にも書いたように不可能である。裁判官は「立証責任」を理由に、原告を敗訴させつづけてきた。それが適正な事実認定に基づいて、本当に原告側が立証に失敗しての結果ならば誰も何も言わない。
 だが、今回の訴訟を例にして見てきたように、現場では明らかに恣意的な裁判が行われている。裁判官は、原告による警察の違法行為を立証しようとする活動に対して、積極的な心証を得ようとしていない。原告がいくら警察の違法行為の証拠を挙げようとも、裁判官は決して「心証を得た」とは言わないのである。
 徒(いたずら)に原告にくみしないその態度を以て、彼らは自らを「公正中立」と嘯(うそぶ)きつづける。「立証責任原則」自体は、極めて妥当な法原則である。だが現在の日本の裁判官たちは、その陰に隠れて自ら真実を知ろうとする努力を放棄している。
 そして、この根底にあるのが、「警察はウソをつかない」という裁判所の抜きがたい“警察信仰”なのだ。これこそが諸悪の根源である。彼らは、警察が絡んだ裁判ともなると、文字どおり警察官の言うことならば何でも信じる。一切の「怪しい」「疑わしいのではないか」という判断を停止させて、無条件でその言い分を取りあげる。一種の思考停止状態である。「警察は絶対に正しい」のだから、裁判官がそこに独自の判断力を働かせる余地はないのである。
 このような“警察信仰”が、なぜこんなにも日本の裁判所に根づいてしまったかは知らない。だが推測すれば、検察(=警察)の捜査・起訴した刑事事件に諸外国にも例を見ない99.9パーセントという異常な割合の有罪判決を与えつづけてきた裁判所自身に原因があるのではないかと思う。
「警察の言うことはウソばっかり」なんて真実を裁判所が認めることは、それに乗っかって有罪判決を出しつづけてきた裁判所自身のアイデンティティを崩壊させる。警察の言うことが正しくないと困るのは、ある意味、裁判所自身なのである。自縄自縛(じじょうじばく)の状態なのだ。“警察信仰”は、そうした裁判所の自己防衛本能の表出と言えないこともない。
 いずれにせよ、確実に現在の日本の裁判官たちは、警察や検察の主張、立証、捜査結果について、その真実性を疑うという頭がない。思考が完全に停止している。
 その有名な例が「遠藤事件」だ。これは1977年、20代の青年だった遠藤祐一さんがひき逃げ事件の犯人として起訴され、「小学生でもわかるほどデタラメ」(交通ジャーナリスト・今井亮一氏)とまで酷評された杜撰(ずさん)な捜査に基づく証拠のみを根拠に有罪(新潟地裁)とされた事件である。「遠藤事件」においても、裁判官が自らの頭で提出された証拠を吟味し、判断することさえしていれば、このような冤罪判決は生まれようがなかった。警察・検察の主張を鵜呑みにした結果が「遠藤事件」なのである。2審の東京高裁も遠藤さんの有罪判決を維持したが、1989年、最高裁が異例の破棄自判で無罪判決を言い渡した。
 罪の軽重にかかわらず、裁判所は刑事被告人とされた国民の必死の訴えに耳を貸すことは少ない。裁判官は“警察信仰”に毒されている。このような単純な決めつけは幼稚であると言う人もいるだろう。だがこれが、日本の裁判所の現状なのだ。あなたが警察にハメられて被告人席に座る日が来ればきっと実感できるだろう。
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by yuutama1 | 2005-04-18 08:30 | 裁判関係